第45回 知の拠点セミナー

「人類は原虫病を克服できるか? したたかな単細胞との戦い」

日時平成27年6月19日(金) 17時30分~
場所京都大学東京オフィス
(東京都港区港南2-15-1 品川インターシティA棟27階: アクセスマップ
講演者井上 昇
帯広畜産大学原虫病研究センター センター長・教授)
講演の詳細はこちらでご覧いただけます (Yomiuri Onlineのページを開きます)

 生物学では単細胞の微細な動物を「原生動物または原虫」と呼んでいます。原虫病とはヒトや動物に原虫が寄生することによって起こる病気を意味し、歴史的に寄生虫病学の範疇で研究されてきました。原虫はウイルスや細菌とは異なり、ヒトや動物の体を構成する細胞と同じ真核細胞であるため、細胞内で行われている様々な生命維持活動がヒトや動物とかなり似ています。したがって原虫に害のある化合物(抗原虫薬やその候補)はヒトや動物にも有害であることが多く、副作用が少なく安全な抗原虫薬を開発することが極めて困難です。さらに原虫は抗原変異や細胞内寄生など、きわめて巧妙な免疫反応からの回避手段を獲得しており、そのため世界的に見ても原虫病の予防ワクチンは皆無です。
 「睡眠病」と呼ばれる熱帯アフリカの風土病についてご存じの方もおられると思います。正確で迅速な診断が難しく、治療薬には致死的な副作用があり、予防ワクチンも無いこの病気は、ツェツェバエやアブによって媒介されるトリパノソーマという原虫がヒトや動物に感染して引き起こす致死的な原虫病です。トリパノソーマ病による被害額は家畜のアフリカトリパノソーマ病(ナガナ病)だけで年間5千億円近いと推定されており、アフリカの経済発展を大きく妨げる要因となっています。トリパノソーマは予防ワクチンの標的となり得る細胞表面の蛋白質(VSG)のアミノ酸配列を頻繁に変異させることができるため、従来の方法によるワクチンの開発ができません。加えて流行地がアフリカやアジアの開発途上国であるため、治療薬開発のコストベネフィットが小さく、大手製薬企業による新薬開発も停滞しています。このようなトリパノソーマ病の被害を最小限に食い止めるため、実効性のある手段として我々が注目しているのが開発途上国の医師や獣医師が現場で利用できる簡単で迅速かつ安価な診断法(簡易迅速診断法)の開発です。簡易迅速診断法が普及すれば患者や患畜をいち早く摘発し、感染が拡大しないように患者の隔離、治療、患畜の淘汰など、適切な対策をとることが可能となります。我々はこれまでに簡易迅速遺伝子増幅法であるLAMP法やイムノクロマトグラフィー(ICT)法を応用した様々な原虫病診断技術を確立し、研究室レベルでその有効性を証明してきました。それと同時に国内外の様々な流行地で疫学調査を実施し、自然感染動物からの原虫病臨床材料を利用して上述の簡易迅速診断法の実用性についても評価しています。昨年からはAMED-JICA SATREPS事業の研究助成を受けてモンゴルに流行している動物のトリパノソーマ病とピロプラズマ病に対する簡易迅速診断法の開発とその実用化を目指したプロジェクトを実施して、近い将来我々が開発した簡易迅速診断法がモンゴル国内で実用化され、地方獣医師の間に普及することを期待しています。
 以上が開発途上国で深刻な問題となっているトリパノソーマ病についてでしたが、次にご紹介する原虫病は日本人も10~20%のヒトはすでに感染しており、世界中に流行しているトキソプラズマ病についてです。トキソプラズマ病も特効薬や予防ワクチンがありませんが、健康なヒトや動物に感染しても潜伏感染することが多いため、その流行や被害があまり一般に知られておりません。一方で妊娠中にトキソプラズマに初めて感染してしまった場合、胎児の流産、死産、新生児の視力障害、精神や運動機能の障害などを引き起こします。トキソプラズマはヒトを含むほとんどすべての動物に潜伏感染し、トキソプラズマに感染した動物(たとえばネズミ)をネコが捕食すると、その糞便中に感染源であるオーシスト(虫卵のようなステージ)が大量に排泄されます。オーシストに汚染された食品や飲料水、ガーデニングなどで手に付着したオーシストを誤って摂取することで感染が成立します。さらに感染動物の筋肉中にシストを形成して潜伏しているトキソプラズマを食べても感染するため、肉類の生食やレアステーキなどにもトキソプラズマ感染のリスクがあります。
 最後に日常生活で原虫病から身を守る方法を紹介します。蚊、アブ、マダニなどの吸血昆虫は原虫など様々な病原体の媒介者であるため、これらの節足動物に吸血されないようにするべきです。トキソプラズマのように食品や飲料水を介して感染する原虫病の場合は食べる前に十分加熱することで原虫を殺滅することができます。また、ペットとの接触や排泄物の処理、ガーデニングや畑仕事などの後には念入りに手を洗うべきでしょう。このように簡単な対策によっても原虫病の感染は防ぐことができますが、世界にはいまだ原虫病が蔓延しています。簡易迅速診断法による原虫病対策を皮切りに、困難とされている治療薬や予防ワクチンの開発にも挑戦して、世界の原虫病対策に貢献したい。