第47回 知の拠点セミナー

「海の生き物のミクロな動き」

日時平成27年8月21日(金) 17時30分~
場所京都大学東京オフィス
(東京都港区港南2-15-1 品川インターシティA棟27階: アクセスマップ
講演者稲葉 一男
筑波大学下田臨海実験センター 教授・センター長)
講演の詳細はこちらでご覧いただけます (Yomiuri Onlineのページを開きます)

 海は生命のふるさとと言われるように、生命の誕生から進化の舞台となったところである。本講演では、海の生き物を用いた演者らの研究を中心に、進化的に大変重要であるミクロの運動について解説したい。海洋生物を用いた研究を行う上で、海に隣接する臨海施設・センターは重要である。我が国には古くから国立大学理学系の臨海施設・センターが存在し、海洋生物学の発展に貢献してきた。演者が所属する下田臨海実験センターもその一つであり、海洋生物学の共同研究拠点として機能している。
 海産生物は自由遊泳するもの、固着性のものなどさまざまである。生き物の移動や変形、水流の発生などに必要な運動やその効率は、生物の系統というよりは、体や細胞の大きさに関与する。大きな生物の移動や各種運動、たとえば魚類の遊泳、貝類の閉殻や穴掘り、エビやカニの歩行、イカやタコのジェット噴射などは、アクチン繊維とミオシン(分子モーター)を駆動力とする筋肉による運動である。軟体動物には、キャッチ筋と呼ばれるエネルギーをあまり消費しない筋収縮機構が存在し、棘皮動物には筋肉でなく特殊な結合組織によるキャッチ機構も知られている。
 水中での運動を考える場合、レイノルズ数という流体力学上の指標が便利である。レイノルズ数が1より大きい対象では慣性による作用(動き続けようとする作用)が支配的である。高速で移動している魚は、流線形で抵抗も少なく、ひれを力一杯バタバタしなくても慣性によりスムースに進むことができる。一方、レイノルズ数が1より小さい場合には、粘性による作用(動きに対する抵抗)が慣性による作用よりも大きくなる。おおむね、目で見えない小さな生き物はレイノルズ数が1より小さい。慣性はほとんどなく、粘性力(抵抗)の作用で動く。精子などは波打ち運動を止めてしまえば、慣性がないのでブレーキをかけなくてもその場で止まってしまう。
 プランクトンは海の中をただよう浮遊生物のことである。運動する生物も多く含まれるが、その移動は主に海水の流れにまかせている。プランクとは目の細かなネット(プランクトンネット)を用いて採集することができる。海洋プランクトンを顕微鏡で観察すると、まずは活発に動いている生き物に目がいく。ミジンコなどのカイアシの仲間は節足動物であり、筋肉を使って動くが、素早い運動を示す生き物の多くは「鞭毛」、「繊毛」と呼ばれる細い毛を高速で波打たせることにより運動する。小さな藻類、原生生物、ウニや貝などの幼生などである。幼生では、運動の他、水流で餌をとる際にも繊毛が必要となる。数千本の繊毛を束ねた「櫛板」を運動に用いているクシクラゲは、浮遊生物という意味ではプランクトンの仲間であるが、数センチある体を移動させる上で、繊毛はそれほど効率のよい運動装置ではないようである。
 「鞭毛」と「繊毛」は長さや細胞あたりの数によって便宜的に区別されているが、基本的に同じものである。鞭毛・繊毛の内部を電子顕微鏡で調べてみると、規則正しい構造が並んでいることがわかる。この構造は、直径25ナノメートルほどの微小管と呼ばれる9+2本の管とそれに結合している小さなモーター分子「ダイニン」が基本となっている。この中で、ダイニンにより微小管が滑ることが波打ち運動の原動力となっている。
 鞭毛・繊毛は、精子をはじめ、輸卵管や気管、脳の中など、我々ヒトの体内のいたるところにも存在している。組織の表面に生えている繊毛は、その周りに流れを作ることにより、物質の移動に働いている。気管における異物の排除は繊毛の働きによるものである。このように、鞭毛・繊毛は原生生物からヒトまで、進化的に保存されてきた重要な小器官である。ヒトで繊毛が形成できなかったり運動ができなかったりすると、内臓逆位、呼吸器障害、不妊、水頭症など、「繊毛病」と呼ばれる病気につながる。この他、体内にはダイニンをもたず運動しない繊毛も存在するが、これらは「一次繊毛」と呼ばれ、は細胞外のシグナルを受け取る「アンテナ」として重要な役割を果たす。腎臓では、尿細管を通る液の流れを一次繊毛が感知することにより、尿細管の細胞の分裂方向が制御されている。一次繊毛が異常になると、多発性嚢胞腎と呼ばれる病気になる。こうした「アンテナ」の役割を果たす動かない繊毛は海洋生物にも重要で、光や重力などを感知する感覚器のほか、魚の群れ行動に必要な側線器にも存在する。
 精子は卵に効率よく受精するために、鞭毛運動を巧みに調節している。例えば、海産魚の精子は、体内よりも浸透圧の高い海水に触れた瞬間に鞭毛運動が活性化する。淡水魚の場合には、海水では活性化せず、体内より浸透圧の低い淡水により活性化する。また、精子の鞭毛運動を活性化したり、運動軌跡を変化させ卵に誘引する物質が卵から放出されていることが、魚類やホヤ、ウニなど、多くの生物で知られている。この際、精子内のカルシウム濃度の変化が運動の調節に極めて重要で、それに応答して鞭毛運動を変化させるタンパク質「カラクシン」が演者の研究室で発見されている。精子運動調節の特殊な例として、カレイ類の精子がCO2により停止してしまうことが演者の研究室で発見された。魚類の中でも、CO2により精子の運動が完全に停止してしまうのは、カレイ類のみである。この生物学的意義はまだ明らかではないが、精子鞭毛が、過去に起こったカレイの底性適応や生殖適応を反映していると思われる。また、多くの海産無脊椎動物の幼生は繊毛によって海の中を移動し、変態により底性生活に移行する。イガイ(ムール貝)などの固着性の生物は、磯や岸壁などの帯状に分布するが、こうした着底の場所選びも繊毛の働きによるものである。このように、鞭毛繊毛はミクロな動きに必要な小さな運動器官ではあるが、海洋生物の繁殖や生態までも司る大切な構造なのである。